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2014年7月29日 (火)

随想『追分(おいわけ)』

 八王子市にある出版社の清水工房から、創業45周年・揺籃社設立30周年記念文集「揺れながら、清く」に執筆を依頼されて、こころよく寄稿した。以下寄稿文を紹介したい。
<清水工房> http://www.simizukobo.com/index.html
Photo
写真:記念文集「ゆれながら、清く」の表紙
                  『追 分』         齋 藤 三 男
  (株)清水工房(揺籃社)の社屋が散田町から追分町に移って何年になるだろうか。毎年、年末になると、八王子市川口郷土史研究会々報『郷土史』の印刷依頼のため足繁く、 (株)清水工房(揺籃社)へ伺ったものである。
 揺籃社と言えば、色川大吉氏の著書である『ある昭和史 〜自分史の試み〜』の中で詳しく紹介されているが、氏により「多摩の常民」と呼ばれた橋本義夫氏を思い出す。 そう言えば、揺籃社の名前も橋本義夫氏の営んだ書店の名前に因んだものであった。
 橋本義夫氏の詩集『雲の碑』の中でも、次の詩は、大変に良く知られているものだ。
                 『五日市街道』  橋本義夫
里の八王子と、山の五日市を結ぶ
『五日市街道』
明治と大正には
動脈として生きていた
トテ馬車がラッパを吹いてはじった
荷馬車が長い行列をして行来した
-- 馬の引く荷物列車だった
人力車 歩行 自転車が流れていた
いかだ師が菅笠かぶりみのを背にし
腰に山刀をさして
六郷から山へ帰る
メイラン神父はカバンに洋傘をさし肩にかつぎ
大またに山に向う
この道を沿道の人は「新道」といった
実直無比な田中老工夫が
照る日 雨の日 土用 寒中を
いとわず一生かけて道を直すのが名物だった!
明治と大正
山と里を結ぶ
生きた動脈だった
                                   (橋本義夫 詩集『雲の碑』より)
 現在、(株)清水工房(揺籃社)の社屋のある場所は、八王子市追分町である。追分(おいわけ)は、道が二つに分かれる場所をさす言葉である。甲州街道を追分で左に進むと高尾から甲州路、右へ進むと陣馬街道である。もとは「牛馬を追い、分ける場所」を意味したが、そこから街道の分岐点も意味するようになり、新宿追分や、信濃追分など、各地に地名として残っている。
  現職の都立高校教師時代、軽井沢の追分に都立高校女性教師が持つ別荘へ250ccの自動二輪(オートバイ)で旧中山道を通り碓氷峠を越えて訪ねて行ったことがある。軽井沢周辺を丸二日程走り回り、帰りは台風の来襲で激しい雨の降る中、曲りくねったヘアピンカーブが続く碓氷峠の下り道を走った時は、本当に緊張の連続であった。無事に、八王子の自宅に帰り着いた頃、上の詩の五日市街道(正確に言うと秋川街道)は、新聞社やテレビ局等の報道陣の車が激しく往来していた。僕が軽井沢から帰り着いた時は、ちょうど峠を越えた隣町で、当時世間を騒がせた重大事件が、解決した日でもあったのである。<以上>

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コメント

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軽井沢まで乗って行った250ccのオートバイは、その後、自宅の車庫から無くなってしまい、何者かに盗まれたのでは大変と、警察に届け出ておいたが、のちに自宅近くの川に放り込まれて捨てられているのを発見。非常に残念至極の思いであった。

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